公開: 2024年2月22日
更新: 2024年2月22日
武士が社会を統治した武家社会は、最初、武士は、田や畑も耕し、平時には農民として生産活動を行い、自分が仕える領主が戦う場合には、自らも武器を取って、家来とともに兵士として戦場に赴く生活をしていました。そのような戦国時代までの日本社会の経済は、主食であるコメの生産高を経済の基本的な財産とするものでした。この場合、コメの生産高を決定づける要因は、コメを生産するための農地の大きさでした。そのため、地方の経済規模を決める基準としては、石高(こくだか)が用いられていました。
1石(こく)のコメは、一人の成人が1年間に食べるコメの量とされ、1石のコメを生産するのに必要な田の標準面積を1反(たん)としていました。戦国時代末期に、現在の石川県を治めていた前田家の領地から収穫されるコメの量は、100万石と言われていました。100万人の領民を1年間、養うのに必要なコメの量に等しい収穫量でした。これが、前田藩の経済規模でした。
戦国時代までの大名は、自分が参画した戦いに勝つと、その報酬として、新しい領地を得て、より石高の多い大名になることで、自分が統治する地域の経済を拡大していました。江戸時代になり、社会が安定すると、戦争がなくなったため、大名間の領地争いがなくなったため、各藩の経済を拡大する方法は、農業生産の生産性増大しかなくなりました。江戸中期の農業改革者である二宮尊徳の活躍は、この時代を象徴しています。面積を一定にして、石高を増加させるための方策として、農民の働く意欲を高め、凶作に備えて、備蓄米を蓄え、凶作時にも農民が食べ物に飢えないようにするなどと、工夫をしました。また、田への用水を工夫し、領地全体でのコメの収穫量を増やす工夫も提案しました。
似たような経済運営は、現在の山形県南部の米沢藩でも行われました。米沢藩の藩主であった上杉鷹山は、藩に仕えていた武士の数を減らすとともに、武士に土木工事への従事を求め、農地の開墾に力を注ぐとともに、米作以外の農産物の開拓にも努力したそうです。このような、経済構造の変化に対応する経済政策も、江戸時代の後半からは、重要になりました。
江戸末期になると、日本社会の経済は発展し、貨幣経済と物流に基づいた商業が次第に経済の中心になりつつありました。紀伊国屋文左衛門のように、江戸と大阪の間に飛脚を走らせ、江戸の情報を可能な限り早く大阪へ伝え、その情報に基づいて、商品を仕入れ、船で江戸に送るなどをしていました。例えば、江戸で大火事が発生すると、大阪で大量に木材を仕入れて、江戸に送り船で江戸へ送り、江戸で木材を高く売り、儲けるなどです。